2025/07/07 08:23
音楽室の朝。
まだ誰も音を鳴らしていない。
譜面台に置かれた一枚のスコアは、風に揺れず、ただじっとしていた。
最初に書かれていたのは、**ト音記号**。
細く、くるりと巻かれた渦。
それは見慣れすぎていて、もはや誰も気にかけなくなっていた。
夜杜さんは飴缶を開けなかった。
そのかわり、譜面の端に親指を軽く置く。
「一番目に書かれるのに、音じゃないんだよな。」
その言葉に、B♭管さんが五線譜のすき間から顔を出す。
「あれって、いわば“音の入口”だよね。だけど、誰も立ち止まらない。」
E♭管さんが冷静に重ねる。
「形式よ。あれがないと、音がどの高さか分からなくなる。でも、誰もそれを見ない。始まりなのに、透明。」
夜杜さんは、譜面台の脇に筆を取り、小さな記号を描いた。
それはト音記号だった。でも、ほんの少し太く、輪郭が震えていた。
「忘れられた入口に、もう一度影を落としてみる。」
飴缶の蓋を鳴らす。
今日の味は、**“始まりのジンジャー”**。
舌に残る、少し熱い響き。
音楽室にはまだ音はなかった。
でも、ト音記号だけは、ゆっくりと空気を開けていた。


