2025/07/10 17:28
ある日の夕暮れ、
狐秋桜堂音楽室の裏にある古井戸から、
風にまぎれて“旋律にならないささやき”が聴こえてきた。
「……また、“音が迷った”か」
夜杜はスーツの上着の内ポケットから、飴の缶を出して井戸の前に立つ。
すると水面の奥から現れたのは
ワンピースの少女。
その手には、くしゃくしゃになった楽譜の切れ端が握られている。
「旋律の迷子は、決まってこの井戸から顔を出すものだ。」
少女が、消えそうな声で囁く。
「あのね……わたし、“モード”が全部ごちゃごちゃになっちゃって……。」
夜杜は静かにうなずく。
飴缶から一粒、青林檎とグレープシードの“順番の飴”を差し出した。
それは、記憶の階段を一段ずつ灯す甘さ。
「大丈夫。君だけじゃない。よくあることだ。
そんな時は、こういう覚え方がある。
“イドフリミエロ”
始まりの“イ”がイオニアンで、“ド”がドリアン――
そう、それは“井戸”から始まる語呂でもある。」
少女は驚いたように井戸を振り返る。
「え……“イド”が“イオニアン”と“ドリアン”? 」
夜杜は微かに笑う。
「モードスケールは、音の感情の階段だよ。
イ(イオニアン):すべての始まり、安定した“基本”の音階
ド(ドリアン):冷たく、でも内に熱をもつ哀調のエキゾチック
フ(フリジアン):不穏な空気が潜む東の旋律
リ(リディアン):空に憧れる、夢想する明るさ
ミ(ミクソリディアン):陽気でいて、どこか憂いの残る旅路
エ(エオリアン):自然な短調。どこにも帰らぬものの調べ
ロ(ロクリアン):決して主役になれない、影のスケール
イドフリミエロ――これは、“旋律の性格を 連ねた短詩”のような記号だ。
しかも“イ”から“ロ”まで、あたかも井戸の底から響いてくるような音の並びだろう?」
少女は井戸の縁に座りなおし、ぽつり。
「……モードを忘れそうになったら、井戸を見ればいい?
“井戸フリミエロ”って、耳に残るかも。」
少女はそう言うと、クスクスと笑いながら夜に溶けていった。
少女のいなくなった井戸を見つめながら、夜杜は静かにもう一度飴缶を開けた。
今度の粒は「モード・ミント:イドフリミエロmix」
――7種の香りが時間差でほどける特調スケールの味。
「イドフリミエロ――感情の水面に映る七つの階段。
スケールとは、感情の“傾き”のことだ。
ドリアンに傾く日もあれば、ロクリアンに沈む夜もある。
君はちゃんと覚えられるよ――その感情で。」
その夜、狐秋桜堂の音楽室には、七色の旋律が響いていた。
ーー イド、フリ、ミ、エ、ロ
音は幽霊のように揺れながら、
今日もどこかの五線の端で、息をしている。


