2025/08/08 23:05
狐秋桜堂の音楽室。今宵は、いつもより少しだけ空気がざわついている。
「……走ってるな」
夜杜はピアノの前で、譜面を見つめながらぽつりと呟いた。
ジャケットの内ポケットから飴缶を取り出し缶を振ると、“黒糖ジンジャー味”の飴が転がり出る。口に含みながら、音の流れに耳を澄ませる。
ドラムは、興奮気味にスティックを振り回している。
「だって、気持ちが乗ってくるんですよ! 止まれないんです!」
一方、ベースは、どこか眠たげに低音を響かせる。
「……うん。俺は、ちょっと、ゆっくりが好きなんだよね……」
B♭管さんが困った顔で譜面をめくり、E♭管さんは「リズムのズレも味ですよ!」と陽気に吹き鳴らすが、音楽室の空気はどこかちぐはぐ。
夜杜は静かに立ち上がり、ピアノの鍵盤に指を置く。
「走りすぎても、足りなくても、音は迷子になる。……けれど、迷子の音にも居場所はある」
ぽん、と一音。
その音に、ドラムのスティックが少しだけ落ち着き、ベースの低音がほんの少しだけ前に出る。
「リズムは、誰かに合わせるものじゃない。互いの呼吸を聴くものだよ」
夜杜の尻尾が、ゆるやかに揺れる。
飴の甘さが、音の隙間に溶けていく。
そして今夜も、狐秋桜堂の音楽室には、少し不器用で、でも愛おしい音たちの物語が響いていた。

